人生二度目の職探しをする前に、尊敬している女性に相談しに行ったことがあった。
彼女は「10年後、自分がどんな人でありたいかイメージしながら行動することが大切」とおっしゃった。
20歳の誕生日当日にあの大きな地震があって、「この世の終わり」とは思わないまでも(人々は常に『我々こそが特別な時代に生きている』と思いがちだがそれは驕りだと佐々木中氏が書いていた)、
10年後のことなんて予測しても当たりっこ無い、自分の人生を計画した通りに全うするなんて絶対に無理だ、と思った。
という訳で「10年後の自分なんてイメージできるのだろうか」と不安に思っていたが、違った。「計画」と「イメージして動く」は具体的な内容が違った。
私はよく計画倒れする。計画倒れする人というのはすごろくのごとく全てのカレンダーにtodoリストを書き連ねるので、1つのマスを消化し損ねるとその日で足踏みしてしまう。「1、2、3、4…」と駒を歩かせるようにひとつひとつのマスでステップを踏まないとゴールに辿り着けない。未来に進んでいるように見えて実は自分がつくった計画という過去を生きているのであって、もちろん確実にゴールに辿り着くには有効な方法ではあるけれども、計画を実行する段階で私は既に死んでいる。死んで過去をなぞる職人になっている。
(もちろん計画を実行するときに生き生きしている友人も沢山いる。自分とは違う次元を生きていると思う。その楽しさは想像できるが真似できない。ちょうど空を飛ぶ夢を見ているときみたいな感じだ。)
話が逸れた。
一方、「イメージして動く」ことはデッサンと似ている。デッサンをするときは頻繁に席を立って絵を遠くから見ろと言われる。鉛筆を動かしている時はどうしても視野が狭いので、離れて見た時に想像した完成図とのギャップをきちんと確認する。
今の自分と10年後の自分を交互に想像しているときの気分は、絶えず鉛筆を動かしながら時々席を立って絵を眺めているときのそれと近い。残念なことにデッサンはあまり上手くなかったけれど。
デッザンには大まかな手順が存在し、積み重ねが完成度に影響するものの、1つの段階を完璧にこなしてから次に進むことが重要な訳ではない。ある程度進んだ後に、1つ前、二つ前の段階の痕跡を改めて確認し、おかしいと思えば手を加えるので流動的である。あとはそれぞれの段階のパワーバランスが良いことが重視される。
10年後の世の中なんて全く想像ができない、まず自分の職業が世の中に存在しているかも怪しい。
が、ふと我にかえって「こんなはずじゃなかった」とはならないようにしたい。
贅沢を言えば「想像以上のものができた」となりたい。
そう思いながら近づいたり離れたりして自分を見続けている。
2015/04/17
2015/04/04
ブログ再開発について
学生時代に半分日記、半分ポートフォリオのような気持ちで始めて、あっというまに飽きて長らく放置していたブログをまた更新することにした。
普段の暮らしぶりについてはノートに書き付けているのだが、最近生活とは関係のない話題も日々思いつくようになってきたからだ。多少人に読んでもらって感想を聞きたいという欲もあるが、今やSNSという「元からつながりが用意された状態」ありきのインターネット、こんなところに辿り着く人間などほんの少数というか、どうやって辿り着いたんだ、という感じだろうな。
あとこれは書いてる本人にしか意味が無いが、日記帳にも今まで通りそれらのような雑感を記しそれと同じ内容の話をブログに書くつもりだ。
ブログをサボっていた間に私は「手書きの文章」と「キーボードで打った文章」の比較にハマっていて、ワープロ登場前の小説と最近の小説を並行して読んだりしていたのだが、
ふと自分の文章でもやってみようと思い立ち、同じ映画のレビューを手で書いたものとスマートフォンで打ち込んだものを読み比べてみたところ、どちらも自分が書いた文で同じ主旨にもかかわらず、言葉選びや内容が違い過ぎて我ながら感動してしまったのだった。
ツイッターに頻繁に投稿していた時期にいたっては、文章をばーっと打ってから140字以内に練り上げる癖がついてしまい、人と話す時にパッと言葉が出てこない始末。
よくよく自分を観察してみると、手書きで文章を書いている時とキーボードで打っているときは文章のつくりかたから推敲のプロセスまで全く違う。筆記手段の変更は言葉のリズムに限らず思考の変更を伴うのである。
常々「言葉」を(特に口頭において)上手に使いこなす人間になりたいと思っているのだが、キーボードだけに頼ってると本気のコミュニケーション障害を持ってしまいそうなので、しばらくは「手書き→キーボード」「キーボード→手書き」「手書き→キーボード→手書き」の変換などを色々試して自分の言葉をつなげる「癖」を探って行きたいと思う。
普段の暮らしぶりについてはノートに書き付けているのだが、最近生活とは関係のない話題も日々思いつくようになってきたからだ。多少人に読んでもらって感想を聞きたいという欲もあるが、今やSNSという「元からつながりが用意された状態」ありきのインターネット、こんなところに辿り着く人間などほんの少数というか、どうやって辿り着いたんだ、という感じだろうな。
あとこれは書いてる本人にしか意味が無いが、日記帳にも今まで通りそれらのような雑感を記しそれと同じ内容の話をブログに書くつもりだ。
ブログをサボっていた間に私は「手書きの文章」と「キーボードで打った文章」の比較にハマっていて、ワープロ登場前の小説と最近の小説を並行して読んだりしていたのだが、
ふと自分の文章でもやってみようと思い立ち、同じ映画のレビューを手で書いたものとスマートフォンで打ち込んだものを読み比べてみたところ、どちらも自分が書いた文で同じ主旨にもかかわらず、言葉選びや内容が違い過ぎて我ながら感動してしまったのだった。
ツイッターに頻繁に投稿していた時期にいたっては、文章をばーっと打ってから140字以内に練り上げる癖がついてしまい、人と話す時にパッと言葉が出てこない始末。
よくよく自分を観察してみると、手書きで文章を書いている時とキーボードで打っているときは文章のつくりかたから推敲のプロセスまで全く違う。筆記手段の変更は言葉のリズムに限らず思考の変更を伴うのである。
常々「言葉」を(特に口頭において)上手に使いこなす人間になりたいと思っているのだが、キーボードだけに頼ってると本気のコミュニケーション障害を持ってしまいそうなので、しばらくは「手書き→キーボード」「キーボード→手書き」「手書き→キーボード→手書き」の変換などを色々試して自分の言葉をつなげる「癖」を探って行きたいと思う。
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